うららか(令和7年5月7~8日掲載分)


◎ うららか(令和七年五月七~八日掲載分)
● 令和七年五月七日 水曜日
○ 二月日々折々 その五十七 うららか
《今回の自選代表五句と自句自解》

春会の「津軽小原節」唄・踊り
春の会謡の踊り手小学生
うららかや扇広げて踊る女児
女の子傘手に踊る春の会
うららかや舞踏の女児に拍手わく

 令和七年二月十五日(土)に開催された第2回椿正範会発表会。第一部の出演場予定者数は九十組。第一部のすでに七十七番まで来た。ここで会主の娘の「あんみ」ちゃんが登場し、「津軽小原節」で見事な踊りを披露した。なんとまだ小学三年生とのこと。びっくりした。将来性がある児だ。拍手喝采。

(二月中旬 第2回椿正範会発表会⑨)
春会の「津軽小原節」唄・踊り
㊟「津軽小原節」・・・津軽小原節(つがるおはらぶし)は青森県津軽地方に伝わる日本の民謡。「おわら節」とも。「じょんから節」「よされ節」とあわせ「津軽三つもの」と呼ばれる[1]。
 解説[編集]
 津軽小原節は青森県津軽地方で唄われる酒盛り唄である[2]。八戸付近ではハイヤ節を祖とする宮城の「塩釜甚句」を元とする「塩釜」が唄われていた[注 1]。この「塩釜」は津軽へと伝わり塩釜甚句(津軽塩釜甚句)として唄われるようになった[2][3] 。この唄は囃子言葉にオワラが入ることから「おわら節」とも呼ばれるようになった[2]。このおわら節は短詩形の七七七五調で唄われてきたが[4]、宴会唄として唄われるうちに歌詞が引き延ばされクドキ調へと変化し[4]、大正から昭和初期にかけて現代まで伝わる津軽小原節の曲調が確立した[4]。
 同じく「小原節」「おわら節」として知られる民謡に「鹿児島おはら節」や「越中おわら節」が知られるが、「津軽小原節」は今日の七五を反復する曲調が成立したのちに、民謡歌手の成田雲竹が改めて命名したものである[2]。また、秋田県に伝わる「秋田おはら節」は明治から大正にかけて唄われていた津軽のおわら節を元唄としている[5][6]。(Wikipediaより転載)
⦿『「津軽小原節」について』《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その千八百九)》
春の会会主は三味線演奏し
春の会謡の踊り手小学生
春の会謡の踊りはあんみちゃん
春の会踊る女の児手に扇子
春の会扇子広げて女児踊る
うららかや扇広げて踊る女児
春の会扇広げて女児は舞い 
春の会扇広げて女児舞踏 
女の子傘手に踊る春の会
春の会傘を広げて女児舞踏 
春の会着物の女児はたすき掛け
春の会踊る女児はたすき掛け
春の会踊る子切れある踊りして 
春の会会主の娘踊り上手
春の会折々見せる決めポーズ
春の会会主笑顔で三味演奏
うららかや舞踏の女児に拍手わく
うららかや舞踏の女児へ大拍手
春の会観客あんみに差し入れを
春の会観客あんみにおひねりを
うららかや退出女児のあどけなさ

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● 令和七年五月八日 木曜日
○ 二月日々折々 その五十八 椿
《今回の自選代表五句と自句自解》

春の会終盤会主の内弟子が 
春の会若き美人の弟子の唄
内弟子椿の柄の和服着て 

 令和七年二月十五日(土)に開催された第2回椿正範会発表会。第一部の出演場予定者数は九十組。第一部の終盤に来た。会主の内弟子が次々と民謡を披露した。中に若い美人の内弟子は時季にあった椿の絵柄の和服姿で民謡を披露した。どこか春めく。

春の会会主はトリに唄披露 
春の会会主「ソーラン節」熱唱 

 令和七年二月十五日(土)に開催された第2回椿正範会発表会。第一部の出演場予定者数は九十組。第一部の最終盤。会主椿正範が、第一部のトリに「ソーラン節」を熱唱した。

(二月中旬 第2回椿正範会発表会⑩)
春の会終盤会主の内弟子が 
春の会若き美人の弟子の唄 
内弟子椿の柄の和服着て  
春の会内弟子次つぎ唄披露
春の会会主はトリに唄披露 
春の会会主「ソーラン節」熱唱 
春の会会主の唄の名調子
春の会会主の唄に大拍手
春の会観客会主におひねりを
春の会観客会主に菓子渡し
春の会子弟の間は良縁に
春の会良縁感じる会主・弟子


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