揚羽蝶(令和6年7月5~6日掲載分)
◎ 揚羽蝶(令和六年七月五~六日掲載分)
● 令和六年七月五日 金曜日
○ 五月日々折々 その十六 初夏
《今回の自選代表二句と自句自解》
夏旅に徳川有縁の正春寺
「初台」の地名由来知る夏の旅
快晴の五月中旬の土曜日。第二回目の甲州街道巡り。正春寺(しょうしゅんじ)と有縁の土井昌勝の妻(德川家忠の乳母)初台局に縁して、この地が「初台」となったようだ。
《五月中旬 甲州街道巡り(第二回)その十(内藤新宿②から高井戸宿①方面)》
初夏の旅「茶室花雲」の説明が
㊟「茶室花雲」・・・茶室花雲(諦聴寺) 所在地 渋谷区代々木3-26-1 (諦聴寺)
渋谷区指定有形文化財
茶室花雲ちゃしつかうん 平成22年(2010)10月7日指定
花雲は昭和3年(1928)に上野公園で開催された大礼記念国産振興東京博覧会のためにつくられた茶室と伝わり、数奇屋師・木村清兵衛(3代目)の作といわれています。その扁額は、近代の茶の湯文化を牽引した益田孝(鈍翁)の揮毫によります。
茶室の構成は、三畳台目・下座床で、にじり口と貴人口が併設され、水屋と腰掛待合は一棟にまとめられています。意匠的に大きな特徴は、大阪府に所在する水無瀬神宮燈心亭(重要文化財)を「本歌」とした「写し」であるということです。材料の仕上や組み合わせ、天井と屋根の構成などに数奇屋師・木村清兵衛の作風も認められます。茶室を構成する材料は、吟味された銘木・銘竹などであり、いずれも希少で良質な材が使われています。
本茶室は三度の移築を受け、そのため造営当初の経緯は伝承の域をでません。しかし、近代の茶の湯文化の興隆において中心的役割を担った益田鈍翁と、著名な数奇屋師・木村清兵衛の関わりは確かです。花雲は、数奇者と数奇屋師が協同し、歴史的な名席を独自に解釈しつつ新たな茶室を作り出すという、近代における和風建築の天海を物語る上でも貴重な茶室であります。
渋谷区教育委員会(現地案内板より転載)
⦿「茶室花雲(諦聴寺)について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 番外)》
新緑や寺の静けさ心地良し
⑦ 正春寺
夏の旅諦聴寺隣正春寺
㊟正春寺(しょうしゅんじ)・・・浄土真宗系単立寺院の正春寺は、柴山安養院と号します。正春寺は、土井昌勝の妻(德川家忠の乳母)初台局が、知行地に菩提寺の建立を願い、その娘梅園局(德川家光の乳母で、柴山九右衛門吉次、慶安4年没)の子正入が住んでいた天台宗湯島専西寺を当地に引寺する形で湯島山専西寺として元和6年(1620)創建、元和8年(1622)初台局(法名安養院)が歿し、寛永4年(1627)浄土真宗に改め、寛永10年(1633)湯島山安養院専西寺と改称、正保2年(1646)更に柴山専西寺と改めたといいます。慶安4年(1651)梅園局が歿し、明暦3年(1657)には正入が入寂、天和2年(1682)湯島専西寺が火災で焼失し、両寺合寺、元禄5年(1692)正春寺と改めたといいます。釋正入を開山、柴山九右衛門吉次の妻(法名正春院清安)を開基とするといいます。(猫のあし跡より転載)住所 東京都渋谷区代々木3-27-5(内藤新宿千駄ヶ谷絵図に掲載)
(追記)
正春寺は、徳川秀忠の乳母であった初台局ゆかりのお寺です。
正式な寺号は、湯島山安養院正春寺といい、もともとは天台宗でしたが、その後改宗して、浄土真宗東本願寺派のお寺となりました。
寺号のうち、安養院(あんにょういん)は、初台局の院号に由来し、正春寺は、開基で初台局の娘梅園局の法名正春院に由来しています。(「気ままに江戸」より転載)
⦿「正春寺(しょうしゅんじ)について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その千六百三)》
夏旅に徳川有縁の正春寺
「初台」の地名由来知る夏の旅
夏の旅しばらく歩いて初台駅
夏の旅十分歩いて初台駅
初夏の旅九時半過ぎに初台駅
㊟初台駅・・・初台駅(はつだいえき)は、東京都渋谷区初台一丁目にある、京王電鉄京王線(京王新線)の駅である。京王東管区所属[注 1]。駅番号はKO02。(Wikipediaより転載)
夏の旅近くに新国立劇場
㊟新国立劇場・・・新国立劇場(しんこくりつげきじょう、英語:New National Theatre, Tokyo)は、東京都渋谷区本町一丁目にある歌劇場(オペラ劇場)[1]。日本芸術文化振興会が設置し、公益財団法人新国立劇場運営財団が委託を受けて運営をしている。
オペラ、バレエ、現代舞踊、演劇の主催公演の実施及びこれらの公演のための施設の貸付を行っている[1]。付属の演劇学校である研修所を有する。(Wikipediaより転載)所在地 東京都渋谷区本町1丁目1番1号
夏の旅さらに歩いて池跡に
夏の旅に高知新聞社員寮
⑧ 旗洗池跡
夏の旅目に旗洗池跡碑
㊟旗洗池・・・旗洗池(はたあらいけ)は渋谷区本町にかつて存在した池。
概要[編集]
本町付近の窪地「小笠原窪」に位置した池で、肥前唐津藩小笠原家の邸宅内にあった[1]。60平方メートル程の小さな池で、神田川に注ぐ自然の湧水であった[2]。洗旗池とも呼ばれる。
伝説[編集]
後三年の役(1083年〜1087年)の後源義家が上洛するときに、この池で白旗を洗って傍らの松にかけて乾かしたという伝説がある[3]。周辺一帯の地名「幡ヶ谷」の由来となったとされる伝説である[4]。そのときの白旗は、のちに金王八幡宮の宝物となったされる[4]。
現在[編集]
池は1963年に埋められ、跡地は高知新聞社社宅「洗旗荘」となった。
現在では、1906年4月にこの池を訪れた東郷平八郎筆の「洗旗池」の記念碑、及び渋谷区が設置した案内板だけが残されている。
周辺[編集]
洗旗荘
高知新聞社の社宅。この池を埋めた跡地に建設された。(Wikipediaより転載)
⦿「旗洗池跡(東京都渋谷区)について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その千六百四)》
・・・・・・・・・・
● 令和六年七月六日 土曜日
○ 五月日々折々 その十七 揚羽蝶
《今回の自選代表四句と自句自解》
新緑の初台緑道歩きゆく
夏日浴び西原地区の緑道を
歩きゆく初台緑道に揚羽蝶
歩きゆく初台緑道に黒揚羽
快晴の五月中旬の土曜日。第二回目の甲州街道巡り。新緑の「玉川上水旧水路 初台緑道」を歩く。とても明るく気持ちの良い場所だ。犬を連れて散歩している人もいる。歩いていると黒揚羽が前を横切って飛んでいった。
《五月中旬 甲州街道巡り(第二回)その十一(内藤新宿②から高井戸宿①方面)》
初夏の旅西原地区へと歩きゆく
初夏の旅前に一丁目公園が
新緑の玉川上水緑道を
※玉川上水緑道・・・ここでは、玉川上水旧水路緑道のこと。
「玉川上水旧水路緑道」は、初台駅から幡ヶ谷駅までの間を流れていた旧水路の上を整備した遊歩道です。
緑道は全長18キロメートルありますが、初台駅寄りの一部は公園としても使用されています。 公園部分にはコンビネーション遊具や滑り台、ブランコ、雲梯などの遊具が揃い、夏はモニュメントから水が流れ、水遊びを楽しむことも出来ます。 緑道沿いには桜並木があり、春はお花見を楽しむ姿も見られます。整備された遊歩道を親子でのんびりお散歩するのもいいですね。(口コミ情報)
新緑の初台緑道歩きゆく
夏日浴び西原地区の緑道を
※ ブログ「治蝶の俳句関連写真集」の「続・夏の写真」の「五月中旬 甲州街道巡り(第二回)(内藤新宿②から高井戸宿①方面)」に「玉川上水旧水路緑道(西原地区) 所在 東京都渋谷区初台1丁目 37」の写真を掲載しています。ご覧頂ければ幸いです。
歩きゆく初台緑道に揚羽蝶
歩きゆく初台緑道に黒揚羽
初夏の旅日を浴び徒歩で地蔵へと
⑨ 幡ヶ谷幡ヶ谷子育地蔵
初夏の旅立派な堂宇に地蔵尊
初夏の旅ビル隅に地蔵尊
初夏の旅子育地蔵に十時半
幡ヶ谷の子育地蔵に夏灯
㊟幡ヶ谷子育地蔵・・・地蔵信仰は八世紀から行われていますが、地蔵とは民衆の苦難を除き、福利を与えることを願いとする仏のことです。 ときには、身代わりとして現れ、ときには、地獄に落ちた民衆を救ってくれるとも言われています。 また、子どもの安全や成長を見守ってくれる仏であるとか、様々に救いの手を差し伸べてくれる仏と考えられていました。
このあたりの低地を昔から地蔵窪と呼んでいたのは、この地域に由来するようです。
江戸時代の貞享三年(一六八六)に造立されたことが、銘により確認できます、この場所に移動する前は、この建物すぐ前にお堂があり、そこに安置されていました。
ところが、甲州街道の拡幅に伴って、この場所にあった大ケヤキのあとに移されました。 現在は、大勢の人びとの浄財によって立派なお堂がつくれています。(渋谷区教育委員会の現地説明板より転載)所在 東京都渋谷区幡ヶ谷一丁目一番八号
⦿「幡ヶ谷子育地蔵(東京都渋谷区)について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その千六百五)》
➁「人気ブログランキング」への「応援クリック」(ポチ)を頂ければうれしいです。ご協力ありがとうございます。力と励みになります。
なお、①「にほんブログ村 」は、「飯島治蝶の俳句ブログ」のブログ名・ブログ紹介欄の末尾に載せています。

この記事へのコメント