五月(令和6年6月29~30日掲載分)
◎ 五月(令和六年六月二十九~三十日掲載分)
● 令和六年六月二十九日 土曜日
○ 五月日々折々 その十 五月晴
《今回の自選代表四句と自句自解》
初夏の旅ここは戸塚家有縁の地
江戸初期に思いを馳せる初夏の旅
初夏の旅於愛の方に思い馳せ
家康と秀忠想起初夏の旅
快晴の五月中旬。第二回目の甲州街道巡りの二番目の目的地の天龍寺(前身は遠江国にあった法泉寺)に着いた。この古刹は、徳川家康の側室である西郷局(於愛の方)の父、戸塚忠春(戸田忠春とも伝わる)の菩提寺(前身は法泉寺)であった。西郷局が後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠を産んだ。徳川家と有縁の古刹である。江戸初期の頃に思いを馳せた。
《五月中旬 甲州街道巡り(第二回)その四(内藤新宿②から高井戸宿①方面)》
初夏の旅新宿通り目の前に
㊟新宿通り・・・新宿通り(しんじゅくどおり)とは、東京都千代田区麹町一丁目から新宿区歌舞伎町一丁目に至る道路の通称である(東京都通称道路名設定公告整理番号 14[1])。
概要[編集]
皇居西側の半蔵門から西に進み、日本有数のターミナル駅である新宿駅に至る道路である。四谷見附交差点付近から新宿駅東口付近までの区間では東京メトロ丸ノ内線が地下を走る。新宿2丁目交差点から西は日本有数の繁華街新宿の目抜き通りであり、日曜・休日の午後に歩行者天国が実施されている[2]。
路線データ[編集]
起点 東京都千代田区麹町一丁目(国道20号・東京都道401号麹町竹平線=内堀通り交点:半蔵門交差点)
終点 新宿区歌舞伎町一丁目(東京都道4号東京所沢線(東京都道5号新宿青梅線重用)・東京都道430号新宿停車場前線=青梅街道・靖国通り交点:新宿大ガード東交差点)総延長 : 約4.5 km[3] (Wikipediaより転載)
(追記)
現在の新宿追分地点の新宿通りが、すなわち(旧)青梅街道。
初夏の旅目前に青梅街道が
初夏の旅内藤新宿西口に
追分や往時を偲ぶ初夏の旅
交差点付近に団子屋初夏の旅
五月晴交差点傍に団子屋が
初夏の朝追分だんご屋目の前に
初夏の旅ここに「追分だんご本舗」
※「追分だんご本舗」追分だんご・・・みたらし・こしあん・よもぎ ←しんじゅく逸品
追分だんご本舗 新宿本店 住所 〒160-0022 東京都新宿区新宿3丁目1-22
※しんじゅく逸品・・・新宿の中で、地元に愛される商品やこの地で受け継がれてきた商品、新たな価値・魅力を創造する商品などを登録したのが「しんじゅく逸品」です。商品ひとつひとつに作り手のこだわりや想いが込められています。(新宿観光振興協会サイトより転載)
② 天龍寺
初夏の旅ここより南下し天龍寺へ
初夏の旅少し歩いて天龍寺
㊟天龍寺・・・天龍寺(てんりゅうじ、天竜寺とも)は、東京都新宿区新宿四丁目にある曹洞宗の寺院。山号は護本山。
かつては牛込付近にあり、上野の寛永寺が江戸城の鬼門鎮護の役割をしていたのに対し、天龍寺は裏鬼門鎮護の役割を帯びていた。天和3年(1683年)に現在地へ移転した。新宿四丁目交差点の近くにあり、繁華街の只中で周囲をビルに囲まれた寺院である。
歴史[編集]
天龍寺の前身は遠江国にあった法泉寺とされる。法泉寺は徳川家康の側室である西郷局(於愛の方)の父、戸塚忠春(戸田忠春とも伝わる)の菩提寺であった。西郷局が後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠を産んだことから、家康の江戸入府に際し遠江国から現在の牛込納戸町・細工町付近に移された。同時に名を天龍寺と改めたが、これは法泉寺の近くを流れていた天竜川に由来する。天和の大火により焼失し、現在地へ移転した。江戸三名鐘の一つとされる梵鐘、「時の鐘」が現存し、大晦日には除夜の鐘でその音色を聞くことが出来る。
渋谷川(穏田川)の源流のひとつであり、かつては境内に池があった(2011年現在も地下水が豊富である)[1]。(Wikipediaより転載)
⦿「天龍寺(東京都新宿区)について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その千五百九十六)》
初夏の旅ここは戸塚家有縁の地
江戸初期に思いを馳せる初夏の旅
初夏の旅於愛の方に思い馳せ
家康と秀忠想起初夏の旅
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● 令和六年六月三十日 日曜日
○ 五月日々折々 その十一 五月
《今回の自選代表五句と自句自解》
夏の旅渡る新宿跨線橋
初夏の旅歴史の流れを感じつつ
五月の日新宿駅に人あまた
初夏の旅「バスタ新宿」駅前に
初夏の旅隔世の感覚えつつ
快晴の五月中旬。第二回目の甲州街道巡り。今、内藤新宿の頃に思いを馳せながら、ゆっくりと新宿跨線橋を渡ってゆく。新宿駅は人で混んでいるし、道路の対面には「バスタ新宿」がある。隔世の感を覚える。江戸時代の人が、タイムスリップして来たら、どんなに驚くことか・・・。
《五月中旬 甲州街道巡り(第二回)その五(内藤新宿②から高井戸宿①方面)》
初夏の旅前の鐘楼に「時の鐘」
※鐘楼に「時の鐘」・・・江戸三名鐘の一つ。
初夏の旅脇に「時の鐘」説明板
初夏の旅隣にもある説明板
初夏の旅説明板に「やぐら時計」
※天龍寺の「時の鐘」と「やぐら時計」・・・説明板には『明和 4 年(1767 年)鋳造された梵鐘で内藤新宿に時刻を 告げた「時の鐘」である。元禄 13 年(1700 年)に常陸笠間藩主 牧 野備後守貞長により寄進されたもので、現在の鐘は銘文によれば元 禄 13 年(1700 年)の初鋳、寛保 2 年(1742 年)の改鋳に続く三代目の 鐘であることがわかる。
総高 155 センチ、口径 85.5 センチ、多摩郡谷 保(現国立市)の鋳物師 関孫兵衛種久の鋳造である。この鐘は内藤 新宿で夜通し遊興する人々を追い出す合図として「追い出しの鐘」 と呼ばれた。また、この辺りは江戸市中の西の端であり、武士が江 戸城に、登城するにも時間がかかるため、明け六つの鐘を少し早く 撞いたとも伝わる』と記載。
天龍寺を菩提寺にしていた牧野守貞が 発起人となり、一般から金銀の寄付を仰ぎ、その金銀を鐘に混ぜて鋳 造したため、音の響きがよいとされていた。牧野成貞は浅草寺「時 の鐘」にも 200 両の寄進をして鐘に鋳込んだ人で、鐘の音を愛して やまないお殿様です。現在も除夜の鐘は撞かれているとのこと。
牧野成貞は「時の鐘」と共に「やぐら時計」も寄進して います。この時計のもとに鐘を撞いたとのこと。
製作時期は不詳だが、天龍寺に寄進されたのは鐘と同じ 明和 4 年(1767 年)と考えられる。当初は和時計であった が、文字盤は明治 6 年(1873 年)の改暦後に 24 時間制の ものに付け替えられたと推定される。文字の中央には牧 野家の三つ柏紋が付いており、柏の葉の一端が針になっ ている。「時の鐘」の説明板の脇に写真と説明板があった。(寅さん歩より転載)
⦿『天龍寺の「時の鐘」と「やぐら時計」について』《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その千五百九十七)》
初夏の旅寺は甲州街道沿い
※この辺りから、甲州へは三十四里(約百三十四キロメートル)。
初夏の旅新宿駅へと向かい行く
初夏の旅しばらく歩いて案内所
初夏の旅途中に観光案内所
○新宿観光案内所・・・新宿を訪れる人々に新宿区の魅力や、観光スポット、イベントなどの各種情報をご提供する新宿観光案内所がオープンしました。新宿の観光をもっと便利に、楽しく。
観光客の皆さまのますます高まるニーズにお応えしていきます。JR 新宿駅東南口から徒歩1分
新宿東南口地下歩道 E10出口からすぐ(新宿観光案内所HPより転載)
③ 新宿跨線橋
夏の旅傍に新宿跨線橋
㊟新宿跨線橋・・・現在の一般国道20号である甲州街道は、慶長6年(1601年)に入府した徳川家康によって整備が開始され、元禄11年(1698年)に甲州街道一番目の宿場町としで内藤新宿が開かれた。 明治18年に日本鉄道(山手線)の内藤新宿駅が開設され、中央線の開通によって、宿場町から交通、商業、ビジネスなど集積度の高い現在のターミナル都市へと変貌した。 今日では、1日の乗降客数が静岡県全体の人口に匹敵する約320万人となり、池袋、渋谷、東京及び梅田駅など、他のターミナル駅を上回り、全国1位となっている。所在地 東京都新宿区(甲州街道紀行より転載)
⦿「新宿跨線橋について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その千五百九十八)》
夏の旅渡る新宿跨線橋
初夏の旅歴史の流れを感じつつ
夏の旅ここは新宿駅東南
五月の日新宿駅に人あまた
五月土曜新宿駅に人あまた
初夏の旅駅対面にターミナル
初夏の旅南改札の前に「バスタ」
初夏の旅「バスタ新宿」駅前に
㊟「バスタ新宿」・・・バスタ新宿(バスタしんじゅく、Shinjuku Expressway Bus Terminal [9])は、東京都渋谷区千駄ヶ谷五丁目の新宿駅南口地区にある[1]、鉄道駅や高速バスターミナル、タクシー乗降場などを集約した交通ターミナル[6]。正式名称は新宿南口交通ターミナル(しんじゅくみなみぐちこうつうターミナル)[10]。(Wikipediaより転載)
⦿『「バスタ新宿」について』《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その千五百九十九)》
初夏の旅隔世の感覚えつつ
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