夏の朝(令和6年6月27~28日掲載分)


◎ 夏の朝(令和六年六月二十七~二十八日掲載分)
● 令和六年六月二十七日 木曜日 
○ 五月日々折々 その八 夏の朝
《今回の自選代表句と自句自解》

車窓より初夏の日浴びるスカイツリー 

 令和六年の五月上旬の土曜日。朝から快晴。条件が良いので、第二回目の甲州街道巡りに行くことにした。今回は、前回の続きで内藤新宿②から高井戸宿①方面。具体的には、東京都西新宿三丁目(東京地下鉄(東京メトロ)新宿三丁目駅)から東京都渋谷区笹塚一丁目(京王線笹塚駅)までの予定で、早朝六時半に出立した。
 千葉県にある松戸駅から電車に乗りこんだ。新緑の江戸川を渡り、新宿三丁目を目指した。
 やがて車窓の東京スカイツリーは、五月晴れの青空を背に初夏の日射しを浴びてくっきりとした姿を大きく見せるようになった。

《五月中旬 甲州街道巡り(第二回)その二(内藤新宿②から高井戸宿①方面)》
車窓より初夏の日浴びるスカイツリー 
初夏の旅国会議事堂前駅へ
初夏の旅国会議事堂前駅に
初夏の朝三十五分後乗り換えて
初夏の朝千代田線から乗り換えて
初夏の旅連絡通路長きかな
初夏の旅地下鉄線に乗り換えて
初夏の旅丸ノ内線に乗り換えて
夏の朝四谷の地上明るくて
初夏の旅四谷出てすぐまた地下に

・・・・・・・・・・

● 令和六年六月二十八日 金曜日 
○ 五月日々折々 その九 五月晴
《今回の自選代表二句と自句自解》

初夏の旅新宿元標追分が 
五月晴追分柱手で撫でて

 令和六年の五月上旬の土曜日。朝から快晴。条件が良いので、第二回目の甲州街道巡りに行くことにした。今回は、前回の続きで内藤新宿②から高井戸宿①方面。具体的には、東京都西新宿三丁目(東京地下鉄(東京メトロ)新宿三丁目駅)から東京都渋谷区笹塚一丁目(京王線笹塚駅)までの予定で、早朝六時半に出立した。
 予定通り新宿三丁目駅で下車し、、順調に第一目的地の「新宿追分」に到着した。
 新宿元標追分のあるこの地は、甲州街道から青梅街道(成木街道)の分岐点である。江戸の世の往時を偲びながら、「新宿追分」の立柱を手で撫でた。

《五月中旬 甲州街道巡り(第二回)その三(内藤新宿②から高井戸宿①方面)》
新宿の三丁目駅に初夏の朝
初夏の旅十分程で駅に着く
㊟新宿三丁目駅・・・新宿三丁目駅(しんじゅくさんちょうめえき)は、東京都新宿区新宿にある、東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。
また新宿駅とは地下通路で連絡している[1]。
乗り入れ路線[編集]
東京メトロの丸ノ内線と副都心線、都営地下鉄の新宿線が乗り入れ、接続駅となっている。駅番号は、丸ノ内線がM 09、副都心線がF 13、新宿線がS 02である。(Wikipediaより転載)
初夏の朝七時半過ぎに駅降りて
初夏の旅駅降り向かう交差点
① 青梅街道追分
初夏の旅ここは新宿三丁目
※新宿三丁目・・・新宿三丁目にある伊勢丹と丸井の間にある交差点に、「新宿追分(おいわけ)」と書かれた立柱と絵地図があります。これは現在の新宿三丁目が、甲州街道と青梅街道の分岐点であったことを示しています。(口コミ情報)
初夏の旅交差点角に立柱
初夏の旅前に「新宿追分」と
初夏の旅新宿元標追分が 
初夏の旅内藤新宿上町に
初夏の旅前に新宿追分碑
㊟青梅街道追分・・・新宿追分 : 甲州街道から青梅街道(成木街道)の分岐。内藤新宿の西端。現在の東京都新宿区新宿三丁目交差点。※三菱UFJ銀行の反対側に碑。
(追記)
 新宿の街の歴史を辿る「新宿街史」。その始まりは徳川家康が江戸入りした際、先陣を務めた武将・内藤清成が現在の新宿一帯の土地を拝領、やがて江戸城への物流ルートとして人や物の行き来が増えた追分(現在の新宿三丁目界隈)に自然発生的に生まれた「内藤宿」にルーツがある。
 浅草商人である高松喜兵衛らがその立地と賑わいに目をつけ、幕府から宿場開設の許可を得たのは江戸幕府成立から約100年経った1699(元禄12)年のことで、これが「内藤宿」に新しく生まれた宿から「内藤新宿」と名付けられた。1718(享保3)年に一度廃宿となるが、1772(明和9)年に宿場は再開された。(歌舞伎町文化新聞より転載)
⦿「新宿追分について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その千五百九十五)》
初夏の旅前の立柱手でなでて 
五月晴追分柱手で撫でて
初夏の旅追分絵地図面白し
初夏の旅追分絵地図分かり易い

➁「人気ブログランキング」への「応援クリック」(ポチ)を頂ければうれしいです。ご協力ありがとうございます。力と励みになります。
 なお、①「にほんブログ村 」は、「飯島治蝶の俳句ブログ」のブログ名・ブログ紹介欄の末尾に載せています。

この記事へのコメント