桜(令和6年6月15~16日掲載分)
◎ 桜(令和六年六月十五~十六日掲載分)
● 令和六年六月十五日 土曜日
○ 四月日々折々 その十一 桜
《今回の自選代表句と自句自解》
春の旅内藤家墓前にて合掌
四月中旬。春日和の休日を選んで、妻と甲州街道の職場巡りに出掛けた。一回目の今回は、内藤新宿(四谷エリア・新宿エリア)だ。
今日はこれまで多数の神社・仏閣や遺跡などを巡ってきた。その中でも、ここ内藤新宿の由来となった内藤氏の菩提寺である太宗寺(たいそうじ)は、一目置いていた。内藤家墓所にて合掌。
《四月中旬 甲州街道巡り(第一回)その十一(内藤新宿①・・・四谷エリア・新宿エリア)》
⑥ 花園公園
春の旅歩いて花園公園に
㊟花園公園・・・複合遊具、ブランコ、カニやリスのスプリング遊具、すべり台、鉄棒など数多くの遊具があります。開園年月日 昭和30年3月1日 (新宿区HPより転載)
桜散るこの公園に家族連れ
桜散るこの公園に人あまた
桜散る公園角に旧居跡碑
※旧居跡碑・・・ここでは、三遊亭円朝旧居跡のこと。
⑦ 三遊亭円朝旧居跡(花園公園)
区立花園公園・小学校一帯は、明治の東京落語界を代表した三遊亭円朝が、明治21年から28年まで住んだ場所です。
屋敷地は、およそ1000平方メートル。母屋と廊下続きの別棟の離れが、『円通堂』と呼ばれた円朝の居室でした。孟宗竹の深い藪や野菜畑に囲まれ、田園風景が広がっていたといいます。
円朝は周囲の喧噪を避けて、当時はまだ寂しい町だったこの地を選んだそうです。
怪談噺や人情噺を得意とした円朝の代表作は、「真景累ヶ淵」「牡丹灯籠」「塩原多助」など。とくに新宿在住時は、新宿や戸塚を舞台とする「怪談乳房榎」や「名人長次」などを書き上げ、まさに円熟期にありました。
新宿区指定史跡に指定されており、花園公園内に旧居跡の碑が建っています。
(新宿観光振興協会サイトより転載)
春の旅歩いて花園通り行く
⑧ 太宗寺
春の旅程なく古刹の太宗寺
㊟太宗寺・・・太宗寺(たいそうじ)は、東京都新宿区新宿二丁目にある浄土宗の寺院である。山号は霞関山、院号は本覚院。本尊は阿弥陀如来。
歴史[編集]
寺伝によれば、慶長元年(1596年)ごろに僧・太宗が開いた草庵、「太宗庵」が前身である。寛永6年(1629年)、安房国勝山藩主であった内藤正勝の葬儀を行ったことを契機に内藤氏との縁が深まり、寛文8年(1668年)に正勝の長男重頼から寺地の寄進を受け、太宗を開山として太宗寺が創建された。院号は正勝の法名を拝している。元禄4年(1691年)、内藤氏は信濃国高遠藩へ移封されたが、太宗寺はその後も高遠藩内藤氏の菩提寺として、歴代藩主や一族の墓地が置かれた。内藤氏の墓地は約300坪の広大なものであったが、昭和27年(1952年)から行われた区画整理で縮小された。5代目当主正勝など3基の墓石が現存する。
かつては境内北側に水が湧いており、蟹川につながる池があったが、昭和25年(1950年)3月、境内北側は都市計画公園として新宿区に移管され、新宿区立新宿公園となっている。公園になった際に池は埋め立てられたが、その後も池跡から水が湧き出ており、水景施設が造られている。昭和27年(1952年)に太宗寺とその周辺で本格的な区画整理が行われ、寺の北側に花園通りが東西に通り、西側に新たに作られた街路に合わせて寺の敷地の形も変更され、新宿通りに面していた入口も一本北側の不動通りまで下がった[1]。
境内には江戸に入る6本の街道の入り口にそれぞれ安置された地蔵菩薩像(江戸六地蔵)の第三番がある。また、この寺には閻魔像・奪衣婆像が安置されており、江戸時代から庶民に信仰されてきた。現在も、毎年7月15日・16日の縁日に御開扉されている[2]。
他に新宿山ノ手七福神の一つである布袋尊像、真っ白に塩を被った姿が特徴の「塩かけ地蔵」などがある。
文化財[編集]
・銅造地蔵菩薩坐像 - 東京都指定有形文化財(彫刻)[3]
正徳2年(1712年)に造られた、江戸六地蔵の第三番。
・三日月不動像 - 新宿区指定有形文化財(彫刻)
額に銀製の三日月を戴くのが名前の由来。像の上には天窓が設けられ、三日月に光が当たるようになっている。
・閻魔像 - 新宿区指定有形民俗文化財
「内藤新宿のお閻魔さん」。都内最大の閻魔大王像。
・奪衣婆像 - 新宿区指定有形民俗文化財(Wikipediaより転載)
(追記)
<夏目漱石と江戸六地蔵>
夏目漱石は、新宿の名主であった塩原昌之助に養子に出されました。(漱石の居住地 内藤新宿北町裏16 明治元年11月~2年3月、内藤新宿仲町 明治4年6・7月頃~6年3月)
自伝的小説「道草」に、その時の思い出として、江戸六地蔵のことが書かれています。幼少期の夏目漱石は、この地蔵によじ登って遊んでいます。
映画「セーラー服と機関銃」(1981年)で薬師丸ひろ子もこの地蔵に登っています。(「Discover 江戸旧蹟を歩く」より転載)
⦿「太宗寺(たいそうじ)(東京都新宿区)について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その千五百九十)》
春の旅地蔵菩薩に手を合わせ
春の旅堂に安置の閻魔像
春の旅堂に安置の奪衣婆
春の旅閻魔堂脇に句歌碑あり
※<句歌碑>
表裏に三句歌が刻まれています。
(表面)
「雪見れば 降休ても 居さりけり」乙芽
「明日や流がるる水も銀河 わなはばき一木にのこり朝朗」十世湖十
(裏面)
「飛く句千代 能なるもちよの松かな」八拾翁清遊
(「温故知しん!じゅく散歩」より転載)
春の旅内藤家墓前にて合掌
※内藤家墓・・・太宗寺の文化財④ 新宿区指定史跡
内藤正勝の墓(内藤家墓所) 指定年月日 平成七年二月三日
江戸時代に信州高遠の藩主をつとめた(元禄四年より幕末まで)譜代大名内藤家の墓所です。
現在の墓所は、昭和二十七年(一九五二)東京都の区画整理事業に伴い、墓地の西北部にあった
ものを現在地に改葬したもので、約三百坪・五十七基の墓塔を現存の三基に改葬し、改装記念碑を
建立しました。
墓塔は三基とも法篋院塔で、中央が五代内藤正勝(寛永六年造立)、右側が十三代内藤頼直、左
側が内藤家累代の墓塔(ともに明治時代の造立)となっておりこのうち正勝の墓は区指定史跡に指
定されています。
太宗寺は、寛永六年(一六二八)にこの正勝が葬られ、六代重頼が寺地を寄進し起立したもので
すが、正徳四年(一七一四)七代清枚が葬られて以後ここを歴代の墓所とし、当主のほか一族が葬
られました。(現地説明板より転載)
・・・・・・・・・・
● 令和六年六月十六日 日曜日
○ 四月日々折々 その十二 晩春
《今回の自選代表三句と自句自解》
春の旅寺出て新宿公園に
旅先のこの公園に咲くパンジー
晩春の花に癒され帰路に就く
四月中旬。春日和の休日を選んで、妻と甲州街道の職場巡りに出掛けた。一回目の今回は、内藤新宿(四谷エリア・新宿エリア)だ。
今日はこれまで多数の神社・仏閣や遺跡などを巡ってきた。その中でも、ここ内藤新宿の由来となった内藤氏の菩提寺である太宗寺(たいそうじ)は、一目置いていた。内藤家墓所にて合掌。
隣の新宿区立新宿公園に着いた。ここも、かつては太宗寺境内北側に水が湧いており、蟹川につながる池があったが、昭和25年(1950年)3月、境内北側は都市計画公園として新宿区に移管され、新宿区立新宿公園となっている。公園になった際に池は埋め立てられたが、その後も池跡から水が湧き出ており、水景施設が造られている。そのような新宿公園に、今、パンジーの花が咲いている。春の花に癒されながら、帰路に就いた。
《四月中旬 甲州街道巡り(第一回)その十二(内藤新宿①・・・四谷エリア・新宿エリア)》
春の旅寺より隣の公園に
春の旅寺出て新宿公園に
⑨ 新宿公園・・・新宿二丁目の花園通り沿いにあります。平成26年より住民の方々との意見交換会を開催し、平成27年3月に改修工事が完了しました。中央に噴水、東側に子どもが遊べる遊具スペース、西側には健康器具 があり、明るく大人から子どもまで使いやすい公園になりました。また広場では町会より寄附を受けて植えられたタカトオコヒガンザクラが春の訪れを知らせてくれます。(新宿区HPより転載)
旅先のこの公園に咲くパンジー
晩春の花に癒され帰路に就く
○新宿御苑前駅
春の旅新宿御苑前駅へ
㊟新宿御苑前駅・・・新宿御苑前駅(しんじゅくぎょえんまええき)は、東京都新宿区新宿一丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)丸ノ内線の駅である。駅番号はM 10。
概要[編集]
かつて宮内庁管轄であった新宿御苑の最寄り駅である。桜の季節である毎年4月には大勢の花見客で賑い、多くの来苑者が当駅で乗降する。通常は主に近隣の企業への通勤客が利用者の大半を占めている。(Wikipediaより転載)
春の旅帰りも丸ノ内線に
春の旅国会議事堂前駅に
春の旅下車後に地下の六階へ
春の午後電車乗り換え千代田線
春の旅電車乗り換え松戸へと
車窓より桜愛でつつ松戸へと
車窓より花を愛でつつ帰路に就く
春の日の午後二時頃に松戸駅
春の午後陽光浴びて家路就く
宿場巡り帰りの出迎え藤の花
春の日の午後二時過ぎに無事帰宅
➁「人気ブログランキング」への「応援クリック」(ポチ)を頂ければうれしいです。ご協力ありがとうございます。力と励みになります。
なお、①「にほんブログ村 」は、「飯島治蝶の俳句ブログ」のブログ名・ブログ紹介欄の末尾に載せています。
この記事へのコメント