冬うらら(令和5年2月17~18日掲載分)


◎ 冬うらら(令和五年二月十七~十八日掲載分)
● 令和五年二月十七日 金曜日 
○ 十一月日々折々 その三十四 冬うらら
《今回の自選代表句と自句自解》

冬の晴草加神社に花手水 

 十一月下旬の冬晴れの日。草加宿歩きを楽しむ。途中、草加神社に立ち寄った。手水舎にある水盤には、一面菊の花が浮かべられていた。いわゆる今はやりの花手水(はなちょうず)である。草加神社の境内の至る所に鉢などが置かれ、境内は、見事な花手水の花景色となっていた。

(十一月下旬 「日光街道 草加宿歩き(後編)」その十八)
冬の午後資料館辞し駅方面
冬の旅住吉とやま公園が
※住吉とやま公園・・・大川家の屋敷の外にあつた耕地を囲む林で「とやま」と言われていた。所在 草加市住吉一丁目8
旅先の公園植え込み冬紅葉
旅先の公園脇に山茶花が
冬の旅来た道戻り草加駅
冬の旅最後駅近き草加社へ
冬の旅最後に草加神社へと
㊟草加神社・・・日光・奥州街道の氷川様
 日光街道・奥州街道の宿場町「草加」に鎮座する草加神社
 当社は安土桃山時代の天正年間頃(1573年~1585年)に、武蔵國三之宮なる大宮氷川神社の御霊を分け戴きて小祀を祭りしに起縁します。
寛永7年(1630年)に草加宿は千住宿に次ぐ、江戸・日本橋から数えて2番目の宿場として誕生しました。
 当社は草加宿が整備されるとともに崇敬を集め、享保2年(1717年)神階正一位の宣旨を賜り、文政(力石)、嘉永(本殿修造)、文久(手水舎)の建造物の銘から、江戸中期より後期にかけ現在の境内様相になったともの推察されます。(草加神社HPより転載)住所:埼玉県草加市氷川町2118-2
(追記)
 草加神社は、草加市氷川町にある神社です。草加神社の創建年代は不詳ですが、天正年間(1573-1592)に大宮氷川神社を勧請、氷川社と称して創建、南草加村の鎮守社であったといいます。明治6年村社に列格、明治42年に谷古宇稲荷神社、高砂八幡神社、宿篠葉神明神社(しゅくしのはしんめい)など近隣の11社を合祀、草加神社と改称したといいます。(猫の足あとより転載)
⦿「草加神社について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その千二百四十)》
冬の晴草加神社に花手水 
㊟花手水(はなちょうず)・・・神社やお寺で参拝をするとき、柄杓(ひしゃく)で水をすくって身と心を清める場所を手水舎(ちょうずしゃ)というのですが、手水舎の手水鉢(ちょうずばち)に花を浮かべたものが花手水(はなちょうず)と呼ばれています。(観光三重サイトより転載)
(追記)
 花手水とは、もともと水の代わりに花や草木の露をつかって身を清める作法のこと。
 日本の多くの寺社では、参拝する際に手や口を水で清める手水(てみず、ちょうず)という風習があります(※)。寺社の入り口の近くで、竹の筒や龍の銅像の口から水が流れている場所を見かけたことはないでしょうか。この入り口近くにある水場が、手水をおこなう場所で「手水舎(てみずしゃ・ちょうずしゃ)」と呼ばれます。同様に手水をおこなう鉢は、手水鉢といいます。
※一部の寺社、宗派によって、花手水の考え方や参拝作法は異なります。
 ただ、最近の「花手水」の解釈は少し変わっていて、この手水舎にある水盤や鉢に花を浮かべることそのものを意味するようになっています。
 この現代的な花手水の発祥といわれているのが、京都にある柳谷観音・楊谷寺。楊谷寺は、古くから眼の病に悩む人々に信仰されてきたお寺ですが、初夏は紫陽花、秋は紅葉のスポットとしても知られています。2015年から手水舎をはじめお寺のさまざまな所に生花を飾るようになり、それがSNSなどで広まっていったのだそうです。(LIVE JAPANより転載)
⦿「花手水(はなちょうず)について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その千二百四十一)》
冬日浴び鳥居に草加社扁額が
冬うらら境内響く雅楽の音

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● 令和五年二月十八日 土曜日 
○ 十一月日々折々 その三十五 散黄葉
《今回の自選代表句と自句自解》

冬の晴社のご神木に抱きついて

 十一月下旬の冬晴れの日。草加宿歩きを楽しむ。途中、草加神社に立ち寄った。冬黄葉の拝殿前の御神木の銀杏を抱え込むように抱いた。大いなるパワーを頂けたようだ。感謝。合掌。

(十一月下旬 「日光街道 草加宿歩き(後編)」その十九)
冬の旅社の手水舎も花手水
冬の旅社の花手水に癒されて
冬の旅松の近くに力石
冬晴の神社に八基の力石
冬の晴社のご神木に抱きついて
※ご神木・・・拝殿前の御神木は、樹齢350年を越すといわれる銀杏の木です。
「御神木に抱き着くと、大いなる力を頂ける」という。
草加社の本殿手前散黄葉 
本殿の手前銀杏の散黄葉 
冬の旅拝殿前にて参拝す
冬旅に所願成就を祈念して
冬の旅草加社本殿鑑賞す
※草加社本殿・・・草加神社は氷川社(ひかわしゃ)と呼ばれていて、天正の頃(1573年から1592年)、小さな祠(ほこら)で祀ったのが始まりです。その後、享保2年(1717年)4月16日、正一位氷川大明神(しょういちいひかわだいみょうじん」の称号が贈られています。明治42年(1909年)に付近の11社を合祀し、社号を草加神社と改めました。
 この本殿のように多彩な彫刻を配するようになると、建物の正面性を強調し、軒唐破風(のきからはふ)や千鳥破風(ちどりはふ)を付し、正面を賑かにしています。
 このような賑やかな彫刻充填式の建物としては、構造をより美しくする建築本来の意味を失っていない建物の一つです。
 絵様(えよう)彫刻は宝暦年間(1751年から1764年)、江戸の名匠・立川小兵衛(たてかわこへえ)が立川流匠家絵様集を出し、以来県内の社寺建築で賞用されましたが、この本殿も立川流の絵様を採用しています。
 多彩な彫刻も職人芸で、現代では不可能に近い至芸です。江戸時代の華ともいえる本殿で、貴重な建造物です。(草加市HPより転載)
(追記)
 本殿は、江戸時代後期の天保年間(1830~1843年)の造営。建物は草加市指定の文化財。
 周囲に柵があるが、本殿がかなり近くで見られる。屋根は銅板葺、元々は檜(ひのき)の樹皮を用いた桧皮葺(ひわだぶき)だったとのこと。
 建物は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)という造り。
 流造というのは、屋根は横から見ると最頂部から地上に向かって、2つの山形の傾斜面の長さが均等でなく、手前側の庇が長い形状になっている造りとなっている。
 また、本殿の壁面を飾る数々の彫刻は立体的で繊細な彫刻が目を惹く。題材は中国の仙人の物語だそうで、特に人物の動きに躍動感を感じる。(時々、旅に出るサイトより趣意)
⦿「草加神社の本殿について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その千二百四十二)》
草加社の本殿の裏散紅葉 
冬の晴受付所により御守を
冬の旅御朱印頂き神社去る

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この記事へのコメント

2023年02月24日 08:27
力石に関する俳句、楽しみに拝見しています。